コラム「自分の死をみつめて」
— ※学童案内「なかよし通信」2010年第1号に寄せたコラムです。なお、一部Web向けに内容を改編しています。
先月の半ば、私は手術を受けました。気胸の再発でした。医師によれば、右肺上部を数センチ切除してしまえば、今後の再発を抑えられるとのことでした。内視鏡施術で最短なら5日後に退院できるとのことだったので、手術を受けることにしました。
前日、手術全般に関する執刀医と麻酔医の説明を受けました。内視鏡といっても肺を切るわけですから、それなりにリスクはありました。大出血を引き起こすこともあるでしょう。強い麻酔も初めてで、アレルギー反応が出る可能性もあります。全身麻酔では静脈血栓塞栓症が起きやすく、40歳以上は高リスク群に入ります。血栓が肺の血管を塞いだら終わりです。肺炎の既往歴のある私は、術後に肺炎を起こすリスクも高かったようです。
私は、少なからず自分が死ぬ可能性があることに気づきました。前夜には、自分の人生はどうだったか、かなり真剣に考えましたと思います。
もし、明日死ぬとすれば、明日以降の未来はありません。ならば、人生の意味は、これまでの過去に問うしかありません。
よく「死んでも何も持っていけない」と言われますが、それを実感しました。私の感覚と思考は、死ねば完全に停止します。だから、得た物など、私にとってはすべて無意味になります。うれしかった思い出すら、やはり無意味になります。考えているうちに空しくなりました。
それから考え始めたのは、出会ってきた人たちのことでした。どんな人に出会って、どう関わってきただろうか? 何を与えることができただろうか? 少ない数ではあったけれど、それなりの手応えを感じました。その人たちの記憶の中に私がしっかりと刻まれているとは限りませんが、よくも悪くも何らかの影響を与えたことは事実です。その人たちの確かな経験として残っているはずです。
そう考えると、ふと気が楽になりました。私の人生には意味があったと思うことができました。当日の朝、手術への恐怖はもちろん、死への恐怖はありませんでした。「幸せな人生だった」という気持ちで、手術台に身を横たえることができました。
やがて手術の準備が整い、「全身麻酔のお薬入れます」という言葉を聴きました。気づいたときにはもう集中治療室で寝ていました。結果的に手術はうまくいき、経過も良好です。
※私はキリスト教徒で、死後自分は天で永遠の平安を得ると信じています。しかし、具体的にどうなるかは知りません。信仰を忘れるわけではありませんが、本稿では敢えて言及しないことにします。
アシュリー=ヘギ
皆さんはアシュリー=ヘギ(“Ashley Hegi”、1991 – 2009、カナダ )をご存知でしょうか。プロジェリア症候群という早老症(異常に速く老化が進行する先天性の症病)で、テレビでもよく紹介されていたと思います。
アシュリーが残した言葉は、10代の子どもの言葉とは思えないようような重みがあります。
—- プロジェリアじゃなければいいのに、なんて思わないわ。私は、私という人間であることが幸せだし、神様がわたしをこうお創りになったのには、きっと理由があるはずだもの。
—- もしも、わたしが誰かから、あなたにはあと24時間の命しかありませんよ、と言われたとしても、それで困ったりはしないわ。
私は以前からアシュリーの言葉に関心をもっていましたが、今回の手術を通してようやくわかってきたように思います。アシュリーは、自分が長くは生きられないことを知っていました。だからこそ、これだけ重みのある数々の言葉を残せたのだと思います。
誰でもいつか必ず死にます。ならば、生きることは死ぬことであり、死は生の一部です。死を受け止めること無しに、生を考えることはできません。生きた時間の長さは関係ないと思います。自分の死を認識して、人は初めて自分の人生を本気で考え、その意味を問うのだと思います。
アシュリーは、こんな言葉も残しています。
—– わたしは、人の前で悲しい顔はしたくない。笑顔でいると、みんながハッピーになるでしょ。
この意味も、ようやくわかったような気がします。消えてしまう自分のためよりも、生き続ける人たちのために、いまこの時を生きたかったのでしょう。
「生」を考えるために
最近では、小学6年生くらいでも、「死」がよくわからない子どもがいるそうです。彼らは、虫も、動物も、魚も、鳥も、他人も、自分も、また生き返ると信じています。
しかし、無理もないと思います。親戚関係や地域社会が密接だった昔に比べ、現在は死を経験できる機会が少なくなっています。老いてゆく人と接する機会も少ないでしょう。人以外の生物の死を経験する機会も少ないでしょう。魚や肉はパック詰めで売られていますし、アスファルトの地面では生き物に触れる機会も少ないでしょう。
「死」への無理解は、「生」への無理解です。死への理解無くして、生命の尊厳も理解できないでしょう。生きる喜びを感じることや、人を愛することもできないかもしれません。
「死」を経験する機会の少ない今、私たちはもっと積極的に、「死」というものを考える機会 (デス=エヂュケーション “Death Education”「死の準備教育」) を、子どもたちに与えなければならないのかもしれません。
私も今回は貴重な経験をすることができたと思います。手術の経験も貴重でしたが、何よりも貴重だったのは、手術を通して自分の死や人生の意味を本気で考える機会を得たことです。
これからの子どもたちとの関わりに活かせればと思います。

